キャスト
- 岸辺直子
- 溝口直子
- 岸辺隆一
- 熊川隆一
- 岸辺恵子
- 平田恵子
- 岸辺律子
- 大草理乙子
- 岸辺裕美
- 平野裕美
- 岸辺久作
- 与儀省司
- 鶴岡ほか
- 竹内義明
- 銀次ほか
- 福本伸一
- 山ほか
- 義若泰祐
- 健ほか
- 宇納佑
- 明美ほか
- 早川晃子
- ピーほか
- 深澤美恵
- 繁夫ほか
- 武隈繁美
- 福子ほか
- 佐々木一美
- 千田コレラ
- 岡山一
- 吉本くらら
- 和田都
スタッフ
- 作・演出
- 鈴木聡
- 美術
- 枡岡秀樹
(ウエストコート)
- 照明
- 板谷静男
- 音響
- 祇園幸雄
- 舞台監督
- 村岡晋
- 宣伝美術
- 森永正広
- 協力
- 高津装飾美術
東京衣裳
演劇集団キャラメルボックス
加藤法子
- 制作協力
- 加藤昌史・佐々木直美
(ネビュラプロジェクト)
山家かおり
- 制作
- 喇叭屋制作部
- 協賛
- 和泉園
- 企画・製作
- サラリーマン新劇喇叭屋
大風呂敷的口上
僕は正直者なので正直に言うが「ショウは終わった」というタイトルを思いついた時はほんとうに困った。なんと意味シンでタイミングの良いタイトルなんだろうと自画自賛する一方で、これはもう3時間ぐらいの超大作をつくらなくてはいけないぞとムシャ震いがした。だからこんどの芝居は、手塚治虫先生を偲び、火の鳥を狂言回しに、雪の2・26から雨のご大葬までを描く、昭和という名の華麗なるショウである。というのは真っ赤なウソで、だってそんなのできっこないじゃん。僕らは真珠湾も玉音放送も知らない。高度成長や全共闘の頃ですら、目のあかないコドモだった。ハッと気が付くと、すべてのメインイベントは終わっていたのである。はじめから、ショウは終わっていた。あわてて劇場に駆けつけると空っぽの舞台で掃除のオジさんが紙風吹をホウキで掃き集めながら「いやあ面白いショウだったのにねえ、残念」と僕を気の毒がる。仕方がないから僕は友達と3人でゲームセンターへ行きヒマをつぶす。ヒマは結構つぶれていく。そういう気持ちで手に汗握ったはずの面白いショウを頭の中で、好き勝手にシュミレーションするほかないだろう。「ショウは終わった」には、自分たちの家族史を限りなくショウアップする家族が登場する。「激動の」なんて暑苦しい枕詞はとっぱらって、昭和くんをスーダラに無責任に遊んでみたい。そしてショウに遅刻してしまった僕らのことを少し考えてみたいと思うのだ。
あなたの人生にネタはあるか
生まれて初めて大阪の人と喋ったときはビックリ仰天した。この人は吉本の人かと思った。なにしろ会話がお笑いだけで成立しているのである。その一言一句、ただウケを狙っているだけなのだ。いやあ大阪のブンカはオソロシイなあ、とおもっていたら、最近ではそのブンカが日本中に蔓延してきたようである。テレビで見たタケシやさんまや、とんねるずを無意識のうちにお手本にしているのだろう、ふと気づくと、ウケだけ狙って喋ってる自分がそこにいる。いまやギャグを言わない人は珍しい。かつては会話のテーマを「話題」と呼んだものだが、最近では「ここんとこネタがなくてよお」と言ったりする。「話題」が提供するのはおだやかなコミュニケーションという感じだ。午後の日ざしがやわらかなカフェテラスで、なごやかに場が盛り上がる世界である。それに対し「ネタ」はキビシイ。ウケなかったら「おもろないで」とビールの空き缶を投げつけられ、仲間ハズレになる。かくして僕らはネタ探しに一生懸命だ。こんなモン買ったとか、こんなモン食ったとか、こんなトコ行ったとか、次々に新しいネタを仕込みつづける。ディズニーランドが大繁盛したり、日産の風変りなクルマが売れたりすることも、少し関係あるかもしれない。かくして現代においては「ネタの多い人」ほど街の人気者であり、「ネタの多い人生」ほど豊かな人生なのだ。と、言ってしまおう。
さて、例の昭和最後の日、夜を徹してオンエアされたドキュメンタリーフィルムを見ながら改めて思ったのは、「昭和はネタの宝庫だなあ」ということであった。みんなが言ってることだけど、こんなに色々なコトが起こり、色々な感情が生まれた時代は前にも後ろにもきっとない。もう少し早く生まれて、バラエティ豊かな出来事を体験して、人生の持ちネタを増やしておきたかったなあとちょっぴり悔しくさえ思う。
というわけで、「ショウは終わった」には人生の持ちネタを競い合う家族が登場する。彼らはウケるかウケないかを基準にしながら、昭和のさまざまなエピソードを語っていく。「事実と違う」をお叱りになる御年配の方もいらっしゃるかもしれないが、そこはそれ、「話のネタ」ということでゴカンベンいただきたい。